生きるとか死ぬとか

生きるとか死ぬとかのことをすぐ語るので、中二病と言われても仕方ないと思う。至極真っ当に死を意識して生きているのだけど、死との向き合い方はいつになっても上手くならない。子供の頃は、自分というものを認識できず不安で生きている心地がしなかった。最近は天災とか世界情勢とかそんなものが不安で生きていられる気がしない。大きな病気になったら治療費も払えずに生きられない気がするし、随分と現実的な不安になったものだ。年を重ねて良かったこともあるけれど、子供の頃のような、かたどられない、それだけで光っていられる心の感覚は見失いたくない。(もうこの心は手からこぼれ落ちていて、かろうじて床を伝えば触れることができる)

ただの器である外側の皮膚(外見)と、揺らぎながら押し留められている魂のことを思うと途轍もない不安に襲われる。ここに存在しているわたし(=魂)をわたし(=いま思考している存在)と証明するものは何もない。何度自分自身に問うても、誰でもない意識のかたまりが浮遊しているだけなのだ。そんなことをふと同級生に打ち明けた小学生の頃、筋違いな励ましを受けたりして、普通はそういうことは考えないものなのか、と気付くとともに傷付いた。理解されないことと説明できないことが、二重で誤差を生む。でも今もうまく説明はできない。

自分の実態はこの身体ではなく、思考にあると感じている。平たく言うとそれが魂と呼ばれるものに近い。例えば今の私の体が死んでしまっても、魂と呼ばれるものならまた違う体になって生き続けている気がする。そう思うときっと死んでいる状態が普通で、生きていることの方が異常なのだと思える。だから早く普通に戻りたくて、死にたいと思っている節がある。今世、つくづく苦の多い世の中よ。本当にただの中二病だな。こういう学問ってあるんじゃなかろうかと思いつつ、触れたことのない分野なので取っ掛かりもないままだ。学問というより宗教ならあるのだろうか。今のところ、わたしひとりで、わたしひとりの心に誓い、この信仰を拠り所にしている。むしろひとりきりで良い。

文章を書くとき、私とわたしを使い分けている。私は外側の実体として存在しているもので、わたしは思考や心を指している。そう思うと、写真に写ることは私の姿を確かめる作業のようだ。他人から見える姿を確かめて、自分の立ち位置を確かめる。たまにわたしまで写っているように見えるとき、嬉しくなる。

頭に浮かぶ文章を書き起こしているときのわたしは、魂のかたちに近い気がする。なんでもないわたしの手触りがする瞬間。だから書いている時間は救われている気がする。自分の拠り所を探すために、みんな書いたり撮ったり歌ったりするのだろうか。


(私でありわたしが写っているような)

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