足枷、遺書
年始、推しが大阪に来るというので、すかさずカレンダーに書き留めた。義務感になりたくないなという気持ちと、大阪に来て良かったと思って欲しい気持ちと、若干揺れるところがありながらとりあえず会いに行こうと思った。
2025年後半は自分のことでいっぱいで、尚且つ彼女のイベントは東京で開催されていたので、出向く余裕が無かった。つくることに集中したくて、意図的に離れていたところも少しあった。ネットで姿を眺めて通販で新刊を買いながらも、実際に会うのは6月ぶりだった。少し時間が空くと、なんか自信が無くなるのはなんだろう(そもそも自信ってなんだ)。在宅のオタクをしている後ろめたさがあるのかもしれない。あと、すべてを追えているわけではないことも。
久々に会う推しは、ふわっと笑って話しかけてくれた。「元気?」と言われて、"元気"とすぐに返せないのは自分の悪い癖だと思う。(全力元気だったことなどあるのだろうか。常にうっすらと俯いている。元気の軸を、このうっすら俯きに合わせた方がいいかもしれない。)
"推し"という存在となにを話したらいいのか、ずっとわからない。顔を見られたら、それだけで十分すぎる。わたしの話をしても興味ないと思うし、かと言って、話を引き出すのも難しくて悩ましい。最近の作品の感想を伝えるのがいちばん良い気がしている。それぐらいしか喜んでもらえそうなことがわからない。
文フリの話を少しして、持参した本を見てもらった。わたしが紙の同人誌に馴染みがあるのは、彼女が紙の作品を出し続けてくれるからだ。彼女の本を見て、この紙の質感いいな…とか思っていたので、自分も紙の本を作れたことは感慨深い。箔押しのことや、搬入の話をしたり。話すことで、自分もイベントに出てたんだなあと改めて実感する。
通販やってる?と聞かれて、本をもらってくれることになった。見てもらえたらそれで良かったのに、恐れ多すぎる。心が広いなと思った、きっとつくる大変さを知ってるからだ。次の日も別イベントで会いに行くつもりだったので、そのときに渡すことにした。
1日目はコンカフェゲストで、2日目は即売会イベントだった。
最近なんとなくコンカフェの楽しみ方がわからなくなっている。最初からわかっていなかったとも思う。女の子の時間をお金で買っていることが怖い。それに慣れてしまうことが怖い。彼女たちが望んで働いているということだけが背中を押す。わからない、望んでいないかもしれない。自分が"女"だということで、女の子と関わることを許されようとしている気がする。外側の定義だけですり抜ける。詐欺みたいだ。
即売会は年齢確認のあるイベントで、カメラを持った男の人たちがうろうろしている。初めて行った時はかなりそわそわしたが、もう慣れてしまった。でも、出店側の女の子たちの肌露出が多いのは慣れない。お金を介したとしても、その姿に見慣れてしまっていいのだろうか。これに慣れてしまったとき、ふとした瞬間に暴力性が勝ってしまうことはないのだろうか。同人活動という善意の枠組みの中でわきまえたコミュニケーションをすること、永遠に誓えますか?永遠などない気がするから怖い。自分が年を重ねるたび、真っ当な社会性を身につけ始めている気がする。
などと思いながらも、即売会までしっかり楽しんだ。わたしの本も受け取ってもらった。またねと言って、手を振って帰った。
彼女を応援したい気持ちがあって、それはこうやって現場に行ったり作品を買ったりするぐらいしかできない。いつまでこんな風に応援できるのだろう、と、揺れる。一生見届ける推しと決めたのに、初めて会いに行ったあの日に。
どうかこの眼差しが足枷になりませんように。もしダメになってしまったら、そのときはきっと他界します。
最近読んだもの
うるわしの宵の月 10巻
王子な宵ちゃんも良いなと思ってしまう、不謹慎。でも運命は、先輩だけでしょう。そうあってください。
忘却バッテリー
今更ながら読み始めた。70話まで来て、要の考えたくない感情がつい出てしまったのがえぐられる。
要と清峰に打ち砕かれて、亡霊になる気持ちの方がわかる。わかるから、一度でいいから、要たちになってみたいと思う。
(木の写真を撮るの、好きかもしれない)

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